生年月日 |
永禄10年(1567)8月3日 米沢城(山形県米沢市)で生まれる。 |
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父母 |
父 米沢城主 伊達輝宗。 母 最上義守娘 義姫 |
独眼竜 |
幼い頃天然痘で右目の視力を失ったが、武勇、知力にすぐれていたので、独眼竜とおそれられた。肖像画には目を入れるように遺言している。 |
兄弟 |
弟 家督争いで政宗が殺害。 妹2人 早く亡くなった。 |
妻 |
愛姫(めごひめ)、側室7人 |
子供 |
男 10人 女 4人 |
母との確執 |
弟をかわいがる母親が政宗を毒殺しようとした。政宗は母を殺すわけにはいかず、原因となった弟を呼び扇をわたした。即ち、お手打ちにした。天正18年(1590)。母親は事件から4年後、山形の実家最上家に去った。 |
性格 |
几帳面 細かい 神経質 気配りの人 しかし時々爆発、爆発すると頭頂部が3センチ角のように盛り上がり、目の色が紅くかわり鬼のように見えた。しかし普段は気配りの人で、城に帰るときは先触れで知らせたり、城内の移動では咳払いをして所在を判らせたと側近の者の文章に書き残されている。家臣の名前を覚えていて忘れなかった。 |
嗜好 |
お酒が好物。正月の雑煮には干しあわび、干しなまこ、黒豆。鴨せんば。 |
師 |
父輝宗。虎哉(コサイ)禅師。守役 片倉小十郎。家臣団。 |
教養 |
和歌、連歌、狂歌、漢詩、古典の学習、茶の湯、能楽、聞香、書 |
美意識 |
25歳から34歳まで京都に滞在していたので京風美意識が開花した。狩野永徳の絵に接していたと思われる。 |
文化人 |
自筆の手紙多数、扇面に随筆を書く、菊花図屏風・襖絵の余白に散らし書き、豊かな人脈(武家、公家、僧侶、町人)、公家貴族趣味は武家では政宗のみ |
知識人 |
師である虎哉和尚の影響か五山文学に親しみ、20代から漢詩を作っていた。戦国武将で漢詩をつくったのは武田信玄のみ、秀吉はもとより、徳川家康も漢詩をつくっていない。僧侶たちとのつきあいも多く、最高の知識人であった。 |
居城 |
米沢→岩出山(宮城県大崎市)何もない裸同然の城に秀吉の命で転封→仙台(宮城県仙台市)青葉山に築城 天守をもたない城であった。江戸時代は一国一城であったが、隠居の城として仙台の城下に若林城も築く。しかし政宗の死後取り壊すように遺言。徳川の言いがかりを恐れたため。 |
死亡 |
寛永13年(1636)5月24日 江戸桜田屋敷で死去。享年70歳。死因噴門癌、腹膜炎。 |
辞世 |
曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く |