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政宗を知る

最後の戦国武将と言われる伊達政宗ゆかりの地を訪ねて、仙台市に行き博物館、瑞鳳殿、大崎八幡宮、輪王寺、陸奥国分寺、松島五大堂、瑞巌寺、円通院、岩出山を見て、政宗のことで少しわかったことをまとめました。

政宗の遺骨からわかったこと

身長  159.4センチ。 血液型  B型。
頭頂部が張り出し、前頭部がふくらんだ頭部になるそうです。(復元容貌)
死因は食堂噴門癌及び腹膜炎。

政宗は最後の戦国武将

戦国時代に生まれ、京で安土桃山時代の華麗さに出会い、江戸時代へと生きた政宗。
もう少し早く生まれていれば天下を取っていたかも知れないと言われてきた政宗。
青年期には信長・秀吉が天下統一を終えて、亡くなったころは徳川三代将軍家光が天下を治めていた。最後の戦国武将と言われる所以だそうです。

政宗は夏の蝿

政宗の父輝宗の代までは東北の領土関係の争いは「一国の義」意識があり、統一はしても滅ぼさないという陸奥の(地縁血縁の)連帯感があった。
しかし政宗は滅ぼして統一した。滅ぼすまで追っても追っても攻めてくることから「夏の蝿」といわれた。

兵ばかりでなく女子供、犬まで撫切りにした。(小手森城攻め、大崎葛西一揆鎮圧の際)
天正17年(1589)には南奥羽のほとんどを手にいれていた。

伊達者

秀吉の時代、京でおこなった朝鮮出兵の出陣式で、伊達軍は人々の目を奪う装いで臨んだので、大いに話題にのぼったとか。「貞山公治家記録」に記されているそうです。
「派手」「格好よい」振る舞いを「伊達な振る舞い」といい、その振る舞いを装っている人を「伊達者」というようになったとの説があります。

政宗の二つの挫折

・豊臣秀吉への屈服  天正18年(1590)6月、小田原城北条攻めに政宗は遅れて、白の死装束で参陣した。
北条滅亡後の奥州仕置で会津領は取り上げられ、居城も米沢から岩出山に移されてしまう。朝鮮出兵、肥前名護屋へ参陣、東北からは唯一朝鮮半島に渡り、石垣普請を経験。

・徳川家康への屈服  関ヶ原の戦いで家康に味方し、上杉景勝を攻め、見方をする約束で「100 万石の御墨付」をかわし、秀吉に取り上げられた旧領を与えられる約束だったが、反故にされた。

政宗の弦月型(三日月)前立・五枚胴具足

政宗 弦月具足政宗 騎馬像

弦月型(げんげつけい)の前立五枚胴具足(仙台鎧)と、日の丸の旗は伊達家の当主のいる場所をあらわすと政宗の父輝宗が定めたそうです。
五枚胴具足は仙台藩の特徴で、鉄板に黒漆を塗り、金具でとめて体にあわせており、重さは21キロもあるそうです。兜の前立は月を表し、日の丸の旗は太陽を表している。
伊達家には大日如来の前立の兜もあり、これは満月を表しているそうです。

右側の写真は可能探幽筆 伊達政宗騎馬像部分(仙台博物館所蔵 絵はがきより

政宗・奥州王としての国造り

織田信長の「岐阜」命名を意識し、千代を仙台と中国唐代の漢詩から名前をとり名づけた。
仙台城と城下町づくりに理想の都を実現しようとした。
まず奥州王として寺社の造営を始めた。

松島の名刹円福寺を改め瑞巌寺の造営。こちらから
大崎八幡宮の造営。こちらから
松島五大堂の再興。こちらから
陸奥国分寺薬師堂再興。こちらから
奥州一ノ宮塩釜神社造営。

政宗の慶長使節団の派遣

政宗は慶長18年(1613)に支倉常長をヨーロッパに派遣した。慶長使節団は領内で建造された船で太平洋を渡り、メキシコを経てスペイン船にのりスペイン、ローマへ行き、7年後に無事帰国した。

当時、西国大名は南蛮貿易で巨万の富を得ていたので、政宗も家康もメキシコやスペインと海外貿易を行い、莫大な利潤と南蛮の物産や技術を取り入れようとしたが、実をむすばなかった。

政宗の資金源

伊達藩の国づくりの初期は金の産出が豊富だった。その後政宗は積極的に米の増産をはかった。新田開発のため、土木技術に長けた毛利家浪人、川村孫兵衛を登用する。

北上川、江合川、迫川を合流させ、石巻へと流れを導き、洪水を防ぎ、穀類を船で運搬できるようにし、周りに新田を開発した。(四代綱村の頃表高62万石が実質100万石)
増産した米を江戸に送り、米相場が上がっていたので、仙台藩の財政を潤した。

米の増産のみでなく海産、鉄製品など他の産業にも力を入れ、収入を図った。

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岩手県、旧伊達藩出身
横浜市在住
「伊達政宗歴史講座」受講
政宗ゆかりの地を
訪ねたのでつくりました。

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